赤いトナカイの回し者

日々、思うこと。亡き母の事。その他人間観察。たまに毒吐くかもです。。

余命宣告

翌日。私は病院から言われた入院の準備をして母のもとへ向かいました。

病室はなぜか個室で、母はベッドの上に腰かけて迎えてくれました。

簡易トイレが側にあり、何だか思ったより深刻な空気が流れていました。

母は私に

「10時に先生から話のあるらしかけん、1階に行って聞いてきてね。」

と言いました。

あと、15分くらいしか無いじゃん。

タオルを畳んで備え付けのロッカーに入れながらそんな事を思っていました。

母は少し落ち着きがなく、でもそんな事も全て初めての入院で慣れてないんだなと思っていました。

程なく時間になったので

「じょあ、ちょっと行ってくるよ。」

と言って、ドアノブに手を掛けたとき、母が言いました。

「あのね、ママ・・癌やけん。・・ごめんね。

そいでね、たぶん、もうダメやけん。」

と。

ふぅ~・・

・・そうか・・

リウマチじゃなくて癌なのか・・

そして、もうダメなやつか・・

・・そうなのか・・

あの時もあの時もそれが原因だったのか・・

「わかった。大丈夫!」

私は母にとって頼りになる長女でなくてはなりません。

旦那さんも現在彼氏も居ない母にとって、頼もしい人が側にいる事が望ましい、そのはずです。

大丈夫!

そう答えて、ドアノブに再び手を掛けました。

いや、待って。時間が足りない・・

気持ちを整理する時間が・・

ちょっと、待って。

そう思ったら、涙が溢れ出てきました。

自分の身体をコントロールできないというのはこんな事を言うんだなと思いました。

側にいたのに気づいてあげれなかった。

いや、母の異変は気になっていたはず・・それでもそれは年齢のせいだろうと。

頼りなるはずの長女は母の目の前で、座り込んで子供のように泣きじゃくりました。

母は

「ごめんね、先生の前でそうなったら話聞けんやろうって思って。。ごめんね。。」

とずっと、謝りました。

私も、母が一番辛いのに申し訳ないなと思いながら、それでも身体と精神のバランスが取れないのです。

そんなにベタベタ仲良し親子でもなかったはずで、大人になってからは母に甘えた事もないはずなのに、母が居なくなるかもと思うと、こんな風になるのかと不思議に思いました。

自分の根源が無くなってしまうような恐怖感がそこにはありました。

いや、今、私のやるべき事。

まずは先生の元へ。

「行ってくる・・」

顔を洗って1階へ向かいました。

先生に呼ばれ、そこには母のレントゲン写真がありました。

「昨日お伝えするべきだったんですが、お母様が『娘に怒られるので明日、娘には明日お願いします。』と言われたものですから。」

この話で怒るかよ。鬼かよ。

母の目には厳しい娘に映ってるんだなと思いました。

私は頷きました。

「率直に申しますね。

お母様は癌です。乳ガンですね。

ご本人が気づいていたかどうかはわかりませんが、かなり進行していて骨に転移が見られます。

今、歩けないのは脊髄に転移したものの影響です。

見てください、脊髄が、1つ見えません。

ずいぶん、我慢されていたと思いますよ。

どうか怒らないであげて下さい。」

いや、だから怒らないよ。

怒れないよ。

「あの、この先・・母は?」

「大学病院に移っていただき、検査を行います。

ですが、手術をする段階はもう・・

いわゆる手遅れの状態かと思います。」

「・・・

手遅れ・・どうしようも無いんでしょうか?」

「・・そうですね。よく今まで我慢されてたなという・・痛みもあったと思うんですけどね。」

手遅れってことはあれか・・

「あの、何といいますか。。

あと、どれくらいとか・・そういうのあるんでしょうか?」

先生がティッシュを2枚下さいました。

また泣いてた・・

先生は少し間をおいて

「もう、いつというのも過ぎているような・・いつであってもおかしくない状態です。

長くて2ヶ月だと思ってください。」

2ヶ月・・

「わかりました。母は余命の事まで知っているんでしょうか?」

「いえ、余命というのはあくまでも医学的な診断状況です。

お母様の気力を損なう様な事は言わない方がいいのかなと・・

そこはご家族にお任せします。」

「わかりました。ありがとうございます。宜しくお願いします。」

先生の元を離れ、私は何をするべきか考えました。

残りの2ヶ月で何ができるのか・・

私は5人姉弟です。

私の下に4人の弟がいます。

その中の2人、次男と三男は20年ほど東京で暮らしています。

数年に1回帰ってくるくらいですかね。

この2人にまず知らせないと、間に合わなかったら申し訳ないと思いました。

まずもって、近くにいながら母を手遅れにしてしまった事、この2人にはとても申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

あとは、母が会いたい人。

母に会いたい人。

なるべく母が旅立つ時に後悔が無いように・・

そんな事を考えました。

その日、母の待つ病室にどんな顔をして

帰ったのか・・

よく覚えていません。

ただただ、余命宣告って本当にあるんだなと。。

聞いてしまうものなんだなと思いました。

この日を最後に、私は母が亡くなるその日まで、母の前で泣くことはありませんでした。

元々、涙もろい方ではなかったので良かったです。

これから先は母との楽しい思い出を書いていけそうな気がします。

病院に連れていった日

母が生きている頃、私は母と同じ和食料理やさんで働いていました。

母は昼番、私は夜番だったので一緒に仕事をすることは稀でしたが、たまに私が昼にかり出される事がありました。

家では何もしない母でしたが、仕事中の母は客観的に見ても、良くできる人材だったと思います。

最年長でありながら、後輩に慕われ、嫌な仕事を率先してやり、人一倍動くというイメージでしたね。

すごいなーというのが率直な感想です。

そんな母と久しぶりに一緒に仕事をする機会がありました。

還暦を過ぎた母には少し、疲れが見え動きが鈍ったなという感じがしました。

私は

「パートナーが私だから今日は良いけど、もう少し動かんば、一緒に組むの嫌がられるよ。」

何も気づかなかった私は そんな事を母に言ったと思います。

母は黙って笑っていました。

それから1か月たった頃でしょうか。

母は仕事を休みがちになりました。

いよいよ歳だな・・

「疲れるのはわかるけど、急に休むと店長のシフト調整が、大変だから早めに言ってあげてね。」

当時、私の役職は《若女将》だったので、疲れきっている母にこう言わざるをえなかったのです。

突然、本当に突然、母は観念したように

「病院に連れていって。」

と一言呟きました。

「えっ?!・・あ、いいよ。いつ?」

「あんたに合わせる。」

母は淡々と答えました。

ということで、2日後、病院に連れていきました。

足が動きづらいと言っていて、お店の中でもリウマチじゃないかなという心配の声がありましたので、内科の中でもリウマチを専門にやっている病院を選びました。

3日間、仕事を休んだ母は玄関を出るときに晴れているのにも関わらず、雨傘を手にしました。

傘・・・いるかな。

タクシーに行くまでの下りの階段で母は何度も休みました。

思った以上に足が弱っていて、うまく歩けてない印象でした。

雨傘は、杖。

杖がないと歩けないの?

そんなに具合が悪かったの?

途中、救急車を呼ぼうかとも思い提案しましたが、母が近所の人の目を気にして、頑なに拒んだので ゆっくり、ゆっくりと2人で階段を下りました。

近所の人から声を掛けられると

「筋肉痛よー。ダメね、年取ったら。」

と、笑いながら母は答えていました。

病院に着いて、私は少しホッとしました。

今まで1度も病院に行ったことがない母にとって、よい健康診断にもなるし万が一入院になっても母は今まで働きづめだったので良い休養になるだろうと、思っていたのです。

母が診察室に呼ばれました。

程なく、病院内がざわつくのを感じました。

何かあったのかな・・母かな・・

待合室の私に向かって

「ミネさんのお嬢さんですね、お母さんは今日から入院して検査をしますからね。」

看護師さんからそう言われ、母のもとへ行くと母は車イスに座っていました。

ニコニコ笑いながら、

「あんた、今日はゆっくりして。明日入院準備してから来てくれんかね?」

と少し突き放す様に言われました。

「今日は?今日はもういいと?」

「今日はもういい。先生に準備するもの聞いて、明日来て。仕事休ませてごめんね。

今日はゆっくり寝て、明日来てね。」

「ってか、ママこそゆっくり寝てね。」

という会話をして私は病院をあとにしました・・・

あとにした・・というか、帰らされた・・という感じでした。

『用事がすんだら帰って!』

みたいなね、なんだか寂しいような、虚しいような・・そんな帰路でした。

でも、無理をしていた母が病院で療養するのは喜ばしいことだとも思っていました。

還暦過ぎてはじめてのメンテナンスかー

と。

1日目はそんな感じでしたね。

それでも母は笑っていました。                           

はじめまして。キートナです。

私、赤いトナカイの回し者でございます。

《赤いトナカイの回し者》
まずはこのタイトルの説明をしたいと思います。

私の母は8年ほど前に64歳で他界しました。

病名は乳ガン。

病院に行ったときには手の施しようがなく、余命2ヶ月の末期ガンだと診断されました。

ですが結果、母はその診断から2年7ヶ月生きてくれました。


乳ガンは骨に転移しており、脊髄に損傷を及ぼし、入院2日目から寝たきりの状態を余儀なくされました。

寝たきりの状態での2年7ヶ月は働くことを生き甲斐にしていた母にとっては辛い辛い日々だったと思います。

母は亡くなるギリギリまで意識がありました。

ですが、最後の3ヶ月程は強い痛み止めの副作用で朦朧とする日々が続きました。

幻覚を見る人も多いと言います。

死の恐怖も伴って、何かに襲われる恐怖の幻覚、蛇がうじゃうじゃとうごめく幻覚など、聞くところによると色々あるそうです。


ですが、母の副作用はとてもメルヘンチックなものでした。


カーテンのレールの上をを3人の騎士が馬に乗ってパッカパッカと歩いてると言ったりしていましたね。

そんな中、母は自分の事を《赤いトナカイ》と言うようになりました。

私たち子供にも、病室のお友だちにも、主治医の先生にも自己紹介は

《赤いトナカイのミネエミコです。今日も元気です。》

と、言っていました。

なぜ、赤いトナカイなのか、聞くとキョトンとして

『知らんやったと?』

という顔をするので、聞くのを止めました。

そんなわけで、謎は迷宮入りとなってしまいました。

娘である私の事は《黄色いトナカイ》と名付けました。

なので、《私は赤いトナカイの回し者》の黄色いトナカイです。


はじめまして。キートナです。



8年間、いつか母の闘病の事を何かに残したいと思っていたので、これを機に書いてみようと思います。

母の事ばかりでなく、日常に思うこと、楽しい人間観察など、そんなことも思うがままに書いて行こうと思います。

どうぞ、宜しくお願いしますm(._.)m



いちばんちいさいトナカイ (児童図書館・絵本の部屋)